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無数の思い出が刻まれた奇跡のケータイ

2015.10.30

入谷公民館長兼志津川・戸倉公民館長 佐々木 仁一

佐々木仁一さんは3地区の公民館の館長を兼務する多忙な日々を送っていますが、現在まで南三陸町職員として35年間勤務のうち約25年間生涯学習関係事業に携わってきたエキスパートです。佐々木さんは2011年3月11日、役場職員としての職務を全うする途中に津波にのみこまれながらも奇跡的に助かり、その後は避難所に24時間常勤したり、町の物資受入班長として衛星電話3本を所持し、鳴り止まない電話に悪戦苦闘しながらも、水や食料を確保し被災された人たちの命をつないできました。

役場職員はマニュアルが身体に染みついている

南三陸町は、リアス式海岸の地形を生かした天然の良港として栄え、養殖などの漁業が盛んに営まれてきました。そして、数多くの津波を経験している土地でもあります。これまで10~20年に1回は津波の記録があり、三陸沖だけでなく、南米沖を震源とする津波が到達したこともありました。そして、50年に1回程度は多数の死者が出るなど大きな被害を受けてきました。

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トトロの愛称で親しまれる佐々木さん

佐々木さんに、2011年3月11日のことを伺ってみました。 「地震が起きて大津波警報が出たときの役場職員の行動は決まっています。水門の管理と避難所の対応です。役場職員はマニュアルが身体に染みついています。」 過去にたびたび津波に見舞われた町だからこそ、防潮堤や水陸門の建設を行ってきましたし、通常時から震災発生に備えて訓練を繰り返していました。しかし、東日本大震災の津波は想定を遥かに超えていました。つらい過去ですが、佐々木さんは当時の様子をしっかりと鮮明に語ってくれました。

「あの日、津波警報が出てすぐに、私は戸倉の水陸門が確実に閉まっているかを確認して、車で避難所に向かう途中に津波の大きな波にのまれました。場所は戸倉小学校のちょうど裏あたりです。」 車が黒い津波にのまれ、流されてきた民家やあらゆるモノがもの凄い勢いで車に衝突した瞬間、脳はショック死状態となり、生きることを観念したそうです。 「この中で自分の遺体をみつけてもらうにはどうすればいいか、車に残ったほうがいいのか、脱出して流されたほうがいいのか、そんなことを考えていた」と佐々木さんは言います。 乗っていた車は、エンジンの重さで車前方が水中に沈み、後方が上の状態で波に流されていたそうです。 「水が車内に入ってきたので無我夢中で上に這い上がって、リアガラスを素手で割って車外に出ました。リアガラスは頑丈で素手で割れるものではないので、いろいろな瓦礫があたってリアガラスがひび割れていたのかもしれません。」

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地震直後に佐々木さんが駆け付けた戸倉の水陸門

車から脱出し、しばらくトランクの上でスケートボードに乗った感じで波をさまよったあと、波にのまれながらも必死に泳いで、あらゆるものに掴まりながら漂流していました。そして、最後になにかの葉っぱにしがみついていたと思っていたら、それが命綱となった電線でした。 「とにかく必死に電線を腕にグルグルにまいて、波に流されないようにしました。そして、突然襲ってきた大きな引き波に全身がのまれました。できるだけ我慢しようと必死に目を閉じ、息を止めました。その時間が数十秒なのか数分なのかわかりません。途方もなく長く感じました。いつしか、津波が引いて誰かにポンと肩を叩かれた時に、もうろうとした意識の中で自分の足が地面に着いていることに気付きました。自分は生きているんだと。」

佐々木さんは、マル秘と書かれた袋の中から数枚の写真を取り出し、そのときの様子を語ってくれました。 「電線を掴んで波にのまれたときの写真がこれです。まぁ、波の上には足しか出ていないのでわからないかもしれないけど。でも、津波が引いた次の写真をみるとここに私がいたことが分かるでしょ。人には見えないかもしれないけど、これが私です。生き残ったのも奇跡だけど、こういう写真が残っているのも奇跡ですよね。」 見せて頂いた写真は、戸倉小学校横の住人が高台に避難し、自宅が津波で流される様子を残そうと写真を撮影していたところ、佐々木さんに気付き撮影していたものです。 写真を拝見すると、目をつむったまま寒さで真っ赤になった手を離さずに耐えている佐々木さんの姿から、 「生きるんだ」という強い意思が伝わってきました。 この写真は、震災の3日後に朝日新聞の朝刊に実名入りで大きく掲載されました。実家を離れ仙台の学校に進学していた娘さんがインターネットでこの記事を発見し、佐々木さんの無事を知ることができたそうです。

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当時の写真を見ながら語る佐々木さん

五十鈴神社で過ごした恐怖の夜

九死に一生を得た佐々木さんは、高台にある五十鈴神社に向かいました。そこにはたき火があったため、身体を温め、ずぶ濡れになった衣服を乾かすことができました。 「たき火がなかったら命が危なかった。偶然、五十鈴神社の麓で助かって、たき火にあたることができたのも奇跡だったと思います。あの日の夜は雪が降るほど寒い夜でした。津波を被って必死に泳いで助かっても、寒さに耐えきれず凍死した人も多かったと思います。」 神社の境内で一夜を一緒に過ごしたのが、戸倉小学校の児童たちでした。教員の機転により、急きょ避難場所を校舎屋上から高台の五十鈴神社に変更し、校舎はすっぽり津波にのまれましたが、学校にいた児童全員が難を逃れることができました。

その時の様子を「現場は熾烈だった」と佐々木さんは言います。神社がある高台はそれほど高くなく、周囲は津波に囲まれ孤立した状態でした。大人のなかには、「次に大きな波がきたらどうなるんだ、波が引いたら高台を降りて少し先の高い山に移動すべきだ!」と主張する人もいたそうです。しかし、児童たちの足で移動できるわけもなく、たき火を囲んで恐怖に怯えながら一晩を過ごしたそうです。

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恐怖に怯えながら一晩過ごした五十鈴神社

「津波の音って分かりますか?津波がくると『バキバキッ』と家屋などの木材が砕ける大きな音が聞こえてくるんです。暗闇の中で何も見えなくても、この音で津波がきたことが分かるんです。あの晩、20回近く津波の余波がきたのが分かりました。」

生涯学習歴25年の佐々木さんは、ほとんどの児童から顔見知りでした。未曾有の恐怖に怯えていた児童にとって、佐々木さんの存在はなんとも心強かったことでしょう。

翌朝、佐々木さんは山道を6~8時間歩いて、災害対策本部にたどりつきました。避難所に医者がいたので診てもらったところ、身体の中にガラスの破片が入っていたので取り除いてもらったそうです。 「あの時は全く痛みを感じなかったです。なんていうか、気にしてられなかった。ショック状態だと思います。」

無数の思い出が刻まれた奇跡のケータイ

ケータイは本人が流されている途中に海の中に流されたので、当然出てくるとは思っていませんでした。しかし、震災から2週間後、津波による瓦礫をかき分けつくった道路は狭く、空きスペースで対向車の離合待ちをしていると、対向車を運転していた知人から「これ落ちてたぞっ!」と車窓越しに手渡されたそうです。 手渡してくれた知人は戸倉小学校で遺体捜索をしていたそうですが、屋上に偶然引っかかっていた佐々木さんのケータイを発見したそうです。

「生涯学習で毎夏、子どもたちと海に出かけることが多く、海や川などにケータイを落とすことも度々だったので、ドコモショップ南三陸店でケータイを買う時に、機能ではなくてとにかく防水に強いやつと注文して買ったんです。」 そう言うと、佐々木さんは傷だらけのケータイを照れながら見せてくれました。なんとこのケータイ、震災から4年半が経過した今でも大事に使っているのです。このケータイには、子どもたちと過ごした楽しい思い出が無数のキズとなって刻まれているからでしょう。

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今も使っている奇跡のケータイ

この町が育む郷土愛

震災後、子どもたちの遊び場であった学校のグランドには仮設住宅が建設されました。ほとんどの子どもたちは遠い仮設住宅からのバス通学となり、運動不足になっていたそうです。

「震災とはなんの関係がない子どもたちが遊び場をなくし、不憫なのは可哀そうだと思ったのです。ある日、『ふるさと学習会』で神割崎の原っぱに子どもたちを連れていったところ、疲れを感じないのかなと思うくらい、子どもたちは1時間近く走り廻っていました。そんな姿を見ていると、大人も頑張らなければなって。」

いろんな人からの支援を受けて、2011年の夏休みには子どもたちを富士山や、北海道、山形、九州に連れて行く機会に恵まれました。 大人が1人同行すれば子どもたちを20~30名連れて行けるので、生涯学習課職員3名でうまくやりくりしながら子どもたちを引率して連れて行ったそうです。

「2011年夏に富士山に子どもたちと登った時は死ぬかと思いました。着るものはすべて津波で流されたので、あの年の夏は防寒着を持たずに頂上まで登ったんですよ。そしたら寒くて、寒くて。」 そう豪快な笑顔で語る佐々木さんの瞳は輝いてました。

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豪快な笑顔で語る佐々木さん

南三陸町には、昔から教育委員会が中心となって進めている「ジュニアリーダー育成研修」というのがあったそうです。 「夏休みには、大人、ジュニアリーダー、小学生が何泊も一緒に過ごします。その間、泣いたり、笑ったり、寝ている間に顔やお腹にマジックで悪戯されたり、この研修で一緒に過ごした彼らは"世代を超えた仲間"なんです。今もこの研修は続いているので、所属は変わってもお手伝いしている。だから自分の夏休みは子どもたちの夏休みが終わって2学期に入ってからというのは今年も変わらないですよ(笑)。」 佐々木さんが生涯学習に携わるようになったのは今から25年前。その頃中学生だった子どもたちの中には成人になってこの町に戻ってきている人もいて、その子どもたちがこの町に住んで活躍しているそうです。佐々木さんに、南三陸町の魅力を聞いてみました。

「南三陸町は豊かな自然や歴史文化もある町なんだけど、やっぱりここの魅力は『ヒト』だと思います。ここに戻ってきたときにホッとした雰囲気になって、帰ってきて良かったなと実感できるんですよ。これからこの町は変わっていく。でも、ここに住む『ヒト』の気持ちは変わらないと思います。」

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復興が進む南三陸町(2015年10月)

南三陸町には震災をきっかけに多くの若者が戻ってきていて、新しい町づくりのために活躍しています。最近では、南三陸町出身でなくてもボランティアをきっかけにこの町を第二の故郷と感じて生活している人も多いのですが、その理由が、佐々木さんの話を聞いて少し理解できた気がします。

2017.03.13

津波に耐えた旧校舎で震災の記録に触れる

南三陸町戸倉公民館 震災記録室

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