帰ってくる人を、いつでも迎え入れることのできる町に
2018.03.05
株式会社鳥藤本店
1949年に富岡町で創業して以来、食堂や給食提供など、「食」にまつわる事業を行ってきました。震災後はいわき市へ移転し、震災の復旧・復興事業や廃炉事業に携わる方々への食事提供を事業の中心としています。富岡町のボランティアツアーや飲食店の開業など、地元の復興に力を尽くしています(写真 株式会社本店 専務取締役 藤田大さん)。
身近にあった原子力発電所
株式会社鳥藤本店は、福島県の海側、富岡町で創業しました。始まりは鶏肉屋で、余った鶏ガラを活用したラーメンが評判となり、食堂を開くまでに。やがて企業などへの給食提供が主力事業となりました。
鳥藤本店の古くからの取引先が、東京電力ホールディングス株式会社です。富岡町から第一・第二原子力発電所は数キロの距離。発電所が建設される時から社員食堂を任され、40年以上も作業員の胃袋を支えてきました。鳥藤本店の専務取締役を務める藤田大さんにお話を伺うと、あるエピソードを語ってくれました。
「自宅の冷蔵庫に、娘が書いた習字が貼ってあったことをよく覚えています。銀賞を取ったと喜んでいて、『原子力』と書かれていました。私たちにとって原発というのは、そういう存在だったんです」
何も特別なものではなく、暮らしの中に当たり前にあるもの。発電所は、町の風景の一つでした。
何かあれば自分が真っ先に駆けつける
2011年3月11日。地震が起こった時、藤田さんは富岡町の会社にいました。激しい揺れが収まると、真っ先に発電所のことが思い浮かんだといいます。昼の食事だけでなく、夜に作業がある時は深夜に弁当を届けることもあったので、「原発に何かあったら駆けつけなくては」という考えが染み込んでいました。
会社からの道中では、塀が倒れていたり、マンホールが地面から飛び出していたりと、信じられない光景をたくさん目にしました。車で走ることもままならず、やっとの思いで発電所にたどり着くと、藤田さんは周囲の制止も聞かずに所内へ走っていきました。
「原発がどんなに危険かなんて、あの時はわかりませんでしたし、思いつきもしませんでした。そんなことよりも、発電所の食堂を預かっていた社員や、顔見知りの作業員、みんなは無事なのか...そればかりを考えていました」
鍋を買い、東京から福島へ
発電所で皆の安全を確認した藤田さんは、必死に作業にあたっている作業員のために「明日からでも炊き出しを」と提案します。しかし、食料や水の備蓄状況、継続した食料調達を考えると、すぐに炊き出しを行うことは現実的ではありませんでした。藤田さんは、家族をいったん避難させ、今後の動き方を検討することにします。
原子力発電所に関する報道はさまざまでした。デマも多く流れており、遠方にいては何が正確なのかわかりません。家族はトンボ返りしようとする藤田さんを必死で止めていました。「一刻も早く炊き出しを」と考えていた藤田さんも、内心では葛藤していました。炊き出しを行うとなれば、自分1人ではできません。しかし、危険だと報道されている場所へ社員を連れて行っても良いものか...。そこへ、ある社員から電話がかかってきました。
「専務、いつから炊き出しを始めるんですか?あまり休んでいると体が鈍っちゃいますよ」......冗談まじりの声でしたが、藤田さんを後押しするには十分でした。
すぐに藤田さんは動き始めます。東京で鍋などの調理器具を買い揃え、一路福島へ。そして、4月6日から、双葉郡から避難している人たちのいる避難所への炊き出しを始めました。東京電力ではなく避難所で行ったのは、「住民の方々に、せめて温かいものを食べてほしい」という東京電力からの要請だったのだと藤田さんは振り返ります。
震災から1カ月足らず。自分たちの会社がこの先どうなるのかも固まっていない時期でした。不安ばかりの中で、なぜそこまで行動を起こすことができたのか、藤田さんは何度も聞かれることがあったそうです。「それは自分でもうまく説明できません。最初に『自分は何が何でもここで踏ん張らなくてはいけない』と決意したから。それだけなんです」
届ける食事には、「おいしい食べもので少しでも元気になってほしい」という想いを込めていました
ありのままの富岡町を見てほしい
福島県内各地での炊き出しを続けながら、会社の移転先も見つけた藤田さん。5月に弁当の仕出しを開始、半年後にはJヴィレッジ内に売店や食堂をオープンさせました。この地域で働き、暮らす人たちを「食」で支える、という一心でした。
翌年、2012年6月には第二原子力発電所の社員食堂を再開。ただ、未だ発電所に関する報道のされ方は様々で、「危険な場所へ社員を連れて行くのか」という声もありました。自分はともかく、社員の安全には責任を持たなくてはと、藤田さんは第3種放射線取扱主任者の資格を取得。発電所の状況を自分の目で確かめた上で食堂を運営しています。
放射能について学んだことをきっかけに、町と国、報道と現場、様々な温度差を感じた藤田さんは、「メディアを通した姿ではなく、今の富岡町を知ってほしい」と考えるようになります。そして、富岡町の警戒区域が区域再編されたことをきっかけに、2013年5月から富岡町の旧警戒区域を回るボランティアツアーを始めました。
ツアーは参加者ありきで、希望次第で半日でも1日でも案内しました。このツアーは口コミで評判となり、テレビ番組が取材に来るまでに。このボランティアツアーの中で、藤田さんがずっと気をつけていたことがあるといいます。
「人の考えること、感じることをコントロールしないように、と意識していました。同じ場所へ行って、同じものを見ても、何を感じるかは自由です。『良い町です』と押し付けるのではなく、そのままの富岡町を見てもらうこと。自分にできることはそれ以上でもそれ以下でもないと思っています」
「ありのままの富岡町を見てもらおう」という気持ちは、今でも変わっていません。
ボランティアツアーでは包み隠さずどんな質問にも答え、富岡町を少しでも知ってほしいと考えていました
いつでも戻って来られる町に
「富岡町は私が生まれ育った場所です。できることなら、町民みんなが戻れるような町に復活してほしい。でも、それが難しいこともよくわかっています」
富岡町が発表した第二次復興計画は、「帰還する」「帰還しない」という二者択一でなく、「今は判断できない」という第三の道も提示されています。町民ひとりひとりの考え方や立場、状況に応じて、その時々で「今、ベストの選択」をしようというものです。
「離れた場所に住んでいても町と関わっていたい、すぐには戻れないけれどいつかは帰りたい、いろいろな人がいるでしょう。無理に帰ってくる必要はありません。ただ、『町に帰りたい』と思った時に、迎え入れることのできる町にしておきたい。そのために、できることをするだけです」
2016年7月に立ち上げたLAWSON富岡小浜店のオープン時の様子です。地域の力になるべく、鳥藤本店は今や3軒のコンビニエンスストアを経営しています
藤田さんが設立に関わった一般社団法人とみおかプラスは、富岡町の「未来に向けたまちづくり」を主導する団体です
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