縁もゆかりもなかった福島へ

夕方5時。入口前の「結」の文字に灯りが点くと、「結のはじまり」が開店します。福島第二原子力発電所のある楢葉町で、数少ない晩酌処を立ち上げたのは古谷かおりさんです。
古谷さんは千葉県の出身。震災時には東京で働いていて、福島とはまったく縁がありませんでした。しかし、震災をきっかけに「人が本当に安心して暮らすことのできる環境をつくりたい」と考えるようになり、設計士を志します。仕事をしながら、夜間学校で2年間建築を学びました。
学校を卒業した後は、福島の状況を知ろうと福島の起業塾に参加。自分ができることを模索して、東京と福島を往復する日々でした。

店内はテーブル席のほか、カウンター席も。仲間とでも1人でも、気軽に立ち寄ることができます

「東京に住んでいたころからずっと、"自分探し"をしていたのかもしれません」と古谷さん

同じ町に暮らす人同士の距離を感じて

起業塾では座学ばかりでなくフィールドワークも多く、その中で双葉郡を訪れたことが古谷さんの転機となりました。原子力発電所で働く作業員と、町の住民それぞれにインタビューを行った時のことです。同じ町に暮らしているにも関わらず、両者が接する機会や場がないのだという話に驚きました。
作業員は全国から集まったメンバーで、新しい土地にどう入って行けば良いのか困っていました。一方の住民は、町に突然多くの人がやってきたことに戸惑っていました。「せっかく同じ町に暮らしているのだから、皆がつながることのできる場をつくれないだろうか...と考えるようになったんです」
そのころ古谷さんは、福島県の中央に位置する郡山市の設計事務所に就職を果たしていました。県の海沿いである浜通り地区の仕事に関わることとなり、頻繁に通ううちに顔見知りが増え、やがて「木戸の交民家」というプロジェクトに参加するようになります。古民家をリノベーションして地域のコミュニティー拠点にするというものです。そこで仲間たちが楽しく過ごしている姿を見ているうちに、ふと気がつきました。
「私はずっと『設計』がやりたいと思っていたのですが、本当にやりたかったのは『場をつくる』ことだったんです。それに思い当たった時、フィールドワークで聞いた楢葉町のことがぱっと思い浮かびました」

市川英樹さんも、古谷さんが楢葉町で出会った仲間の1人です。「古谷さんは、人の可能性を見つけて、背中をそっと押してくれるような人ですね」

「私がお店を開こう」----見知らぬ土地でのスタート

フィールドワークで印象的だったのは、作業員の「気軽に飲んで話せる場所がほしい」「出来合いの惣菜ではなく、温かいご飯が食べたい」という声でした。楢葉町は2015年7月に避難指示が解除されていますが、帰還者はまだ多くありません。お酒を飲むことができる場所はたった1軒でした。
「それなら、私がお店を開こう」
とはいえ、飲食業の経験はいちどもありません。女性1人、見知らぬ土地での起業ということで、安全面や採算性を考えて反対する人が多かったといいます。それでも、古谷さんの決意は揺るぎませんでした。「木戸の交民家」の近くに居抜き物件を見つけ、住民の方から料理の特訓を受けて、2017年夏、「結のはじまり」をオープンさせました。

カウンターには日替わりのお惣菜が並びます。おにぎりは人気メニューの一つです

住民が顔を合わせて語り合える場所に

開店当初は「明日はお客様が来るだろうか...」と不安を抱えていたそうですが、口コミで少しずつ評判が広がり、今ではなんと町長も度々訪れるように。当初の目的だった作業員と住民の交流も、少しずつ生まれてきています。
「地元の方が、『古谷さんがやりたかったのはこういうことだったんだね』と言ってくださったのが本当にうれしかったです。ここでの出会いをきっかけに、お店の外でも話すようになったり、一緒に何かを始めたり...その人のそれまでの風景が変わるような、そんな場所にしていきたいです」
福島に縁のなかった古谷さんですが、自然と「この町でずっと生きていくのでは」と考えるようになったそうです。古谷さんは、これから楢葉町にどんな新しい風を吹き込んでいくのでしょうか。

「結」の温かい灯りがお客様を迎えます